これがココの“フツウ”というもの――主観と客観  05/8/13


もしも
そう 誰彼となく
聞いて回ったことがある
そう もし
もしも あなたの子供が
あなたが詳しい分野の疾患を
生まれつきもって生れたならば
例えば“わたし”
ASだったら自閉症だったら
あなたがその親だったら
あなたのすぐそばでつながっている家族なら
あなたはどうするでしょう

帰ってくる反応は
面白いように同じ戸惑いの間と答え
少しの沈黙
そして答え
“自分では無い ほかの医者 信用のある知人に 託す”

どうして・・・
どうしてだろう
すぐそばで分からないことを教えてくれる手があるのに
それを振り払うの
遠くに探さないといけないの
理解できなかった
遠くなってくる

それがこの世界
それがここの“ふつう”
そうなんですね
どこまでいっても これがゲンジツ
では
他はどうなの
ほかの分野は
そう
きっと
ここは違っても ほかは・・・

おなじ答えの繰り返し
どれだけの人に聞いただろう
誰もが答える
自分では “身内 まして わが子”なら
自分では 診ない “ソウイウモノダロウ?”

理由は
理由な何
これもまた
みんなそろって同じ反応 同じ答え “主観”が入るから
“客観”が出来ないから
だから・・・

”ソウイウモノダロウ・・・?“

そういうもの・・・・どういうもの・・・?
子供は何を思うだろう
不思議と思わないの
何故目の前に居る一番自分の今の原因を知る専門家であるのに
何故こっちを見てはくれないのほかの ヒトのところへ、と

する方も される方も
当たり前に過ぎてゆくものなのですか
それは
“すてられた“
“わたし”のせかいでは
“ステラレタ”
“此処”では そうでは無いんだね
ココでは“フツウ”で“ゲンジツ”なんだね

これからは
生む前に
よい遺伝子を選択出来る様になって行くんだってね
倫理とか言う
わけのわからない矛盾した
バイブルに阻まれながら
殺すために生れさせる
“実験”のためなら
全てに目をつぶるおかしな法則
それでも進むだろう
イヴの目指した世界へ
目指した世界―――?
イヴ
あなたは・・・

生む前に選ばれる
そして
選抜されたものだけの世界
“すてる”
それは
いなくなる

いい時代になるね
存在してしまってから “すてる” “すてられる”
そういうものがない
いい時代になるね

違うもの いらない物は捨てる
それがなくなるまで行かなくとも
ずっと少ない世界でしょう
それが
“ふつう”だから
“げんじつ”だから
なんでもない
当然の事だから
(2008年6月一部加筆修正)

05年8月頃

あなたに子供が居て、その子があなたの科にかかる病気なら、どうしますか。それの答えを聴きたかった。わたしには、一番の、問題だった。それは、すぐそばに、わからないことで混乱しても、それを理解して導いてくれる人が居るという安心だから、りそうの“家族” そう、思って、そう憧れ、そう、有るんだと。でもそれは、わたしだけの、“フツウ”だった
他の医者に見せる、自分は見ない、それが答え。わたしには、コドモは捨てられるとしか聞えなかった。起きていることが辛い、みんな、ごめんね・・・

【コメント】(琴)

 いつも戸惑うことばかりの日常、いつも、どうして、が、多い中。手をつないでいるいつもそこにいるという家族というものが、専門家で、わからないことをその場で教えてくれたらどんなに世界は過ごしやすいだろう… そう思えて仕方がない、でも、それでも、親は、主観という感情が入るからしないと。
 私の中の子供は、そうして、どうしても、捨てられる感覚が埋められないのです 主観、客観、それ自体が、なんだか不可解な感情に思えてしまうの、です。(2008年6月 記)


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