“わたし”から“ワタシタチへ  05/8/13


ごめんね
クロ子 ソト子 ムスメ役
そして――――――離れたところで常に居るわたしたちの“理性“
いらない物は
いらない
いつまでたっても
認めない 何があっても認めない
そういうものは
言われてしまうものは
何処まで行ってもどんなヒトでも
要るヒト 必要な存在
そういうものにはなり得ないの
わたしとコドモは
琴子 ことこは
鎮まりかえったコドモの居る部屋
先に行きます
きらきらの最後の一枚を持って
ごめんね
この世界の法則
役に立たない物 たたなくなった物
邪魔になった物 そうなる物
嫌われた物 嫌われやすい物
飽きられた物 飽きられやすい物
そして
まじめとか 信じるとか 誠実とか
そんなふうに分類される物
それは“利用される”事が
そういうものになる事が多い
正直者は損をすると
いう言葉すら
この世界には 当たり前のように ある
ことばそのままに受け取って
そのままにそうしていくワタシタチ
違うのではと思っても
思う方向が間違って
意味するものを思ったら 思う必要も なかったりで
いつどれがそのままの姿か解らない
言葉ばかりがあふれている中
ただどれだけどう捕まえて
信じるとすればいいのかってさまよううちに
周りを失う
繰り返ししかない

忘れないで
そういうものには誰であっても
このヨノナカは
何処までも容赦がない
だからせめて

0か1か

それしかできなくても
難しい事だけど
忘れないで
どこか片隅には必ず
どんな小さな事にでも
100%ということだけは絶対にしないで 求めないで
難しい事
それは解っている
でも
ここは0か1か それが何て少ないの
有るのかもわからない
耳に響く音として向かってくるものの持つ表面一枚きりだけのことば
そうでないもので溢れている
たとえ
そのときはそうであっても次にはすぐに変化していく物
そして
いくら要らなくなっても
いくら認めないと追われても
いくら邪魔になっても
“自ら”
それだけは
今 “中に居る“体のその手で それでだけは
“入れ物”を壊してはいけないというおかしな法則
居なくなって欲しいはず
それなのに
そうであっても無くとも それなのに
それだけは“此処での決まったカタチ”と言う物が許さないおかしな法則

止まる事が出来るとき
そうできるときは
その者ではなく
カタチのため
そこにその者の“意志”などは無い あっても
かけら 断片 本当はどこへ

覚えていてね
できない事 難しい事はわかっている
でも
全てのことば 全てのそのときにある“手”
それに100%はありえない
必ず
何かコトバには
それと必ず反対の意味が有ると思っていた方がいい
そのほうが間違いないから ふつうの中に許されるから
忘れないで
願っているから
一日も早く
この“イレモノ”が
壊れる事を
“フツウ”が言うこのヨノナカのいいカタチを壊さない程度に
壊れる事を
生き物も ヒトも モノも みんな
要らなくなったものは使い物にならなくなったものは
利用価値のないものはみんな
いらない
救いなどない
みんな平等などと奇麗事だらけのどろどろの世界
聞かなくて済むはずの 見なくて済むはずの
それをたくさん フツウよりも見てきてしまったのかもしれない
あまりにも
見せすぎてしまった
関わらせてしまいすぎた
ふと漏らしたあの人の小さな一言
いちどだけの

何処まで行っても要らない物はすぐに
カタチさえ気にしなくて済むなら
すぐにでも処分 その影の部分目の当たりに見聞きせずに居たのなら
何か違っていたのかもしれないね

ココから“みんな“で“還る”ことができる日
願っている
ごめんね
役に立たなくて
“わたし”が出てきてしまってご免ね
“わたし”を見つけたかった
“わたし”を見つけた
“わたし”を見つけてほしかった
でもそのために
認められないことを思い知らされただけだった
ご免ね
願っている
ごめんね・・・


(2008年6月一部加筆修正)

05年8月頃

あなたに子供が居て、その子があなたの科にかかる病気なら、どうしますか。
他の医者に見せる、自分は見ない、それが答え。わたしには”主観”が、入るから…。
客観になれないから…、主観と客観、それが手を放すかつなぐかを分けるの
。 コドモは捨てられるとしか聞えなかった。わたしたちのコトバでは、どうしてかわからない。同じ分野なのに、どうして、と。
(05年8月頃の日記より抜粋 2008年6月)

【コメント】(琴)

  言葉そのままを受け止めていい時とそうでない時が区別がつかない。
  そうしているうちに一人取り残されて 一人おかしな人になっていく。
  主観って何をどこまで、客観との差は何だろう わからない。

  時間とともに変化すらする言葉の意味をつかみどころがないから、いつも反対の意味と対にして気に留めておくしかなくなってしまう。でもそうすると信じること、難しくなって、そのうちに、ただ小さく一人でいることだけ。
  言葉とその裏、意味の変化、当たり前に普通はしていることが当たり前でない人もいると気が付いてもらえたなら…。 (2008年6月 記)


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