得た物と失った物   05/9/4


動物愛護センター
この小さな仔犬と此処で出会ったのは
もう15年ぐらい前
愛護
辞書に載っている意味
そして
この施設の本当の意味
愛護
アイゴ
そう言って
主を失った物たちを
“アイゴ”のために連れて行く
それは年に何十万
その名のもとに何十万
失った主
さまよう物たち
主を捜して主を“信じ”て
そして
“アイゴ”
そして
ココで消えていく
捜して信じて消えていく

出会いのときは
本当だったのに
突然に
突き放されて
わけもわからずさまよう
たくさんの生命
そして迎えに来る人は
待ち望んだ主人というパートナーではなく
愛護するという施設の人たち
何を愛護というのだろう
突然の事態に戸惑っても
差し伸べられる手は
“おいで”ではなく
“捕獲”暖かい“手”はどこにも無い
待っているのは網と鎖と狭い檻

ほんの一握りにも満たない小さな子だけが
ほしい人が居そうな “器量よし”
“うるさくない”子達
宝くじより悪い確率で
愛護を訴える中で“子犬 子猫の抽選会 さしあげます”
その枠に入る
入らなければ
愛護して
安楽死という名のせめてもの“愛護”で“終わらせてあげる”場所
後何日とでそこへ行くと順番に送られて
ガス室で苦しみながら
“安楽死”


必要だった者たち
者は必要なくなれば
ある日突然“者”から“モノ”へ
モノになって
つまらない
小さくて無邪気がかわいかったのに
面倒見はじめたら面倒になった
あんなにほしかったけど手にしたら飽きちゃった
みんなが持っているから
期待してたのにつまらない期待はずれ
もういいから 今度はあれがほしいから
これはモウイラナイや

パートナーという者だった
突然 もしくは あるものは徐々に
いつのまにか
“モノ”

捨てればいい
無機物でも有機物でも
主の意志ひとつで決まる
主 人間という2本足の“パ−トナー”
パートナーということすら一方通行であっても

壊れたおもちゃ
壊れた“モノ”
必要なくなった“モノ”は
壊れてすらいなくても
要らないの一言で
邪魔なだけ
いらない“モノ”は
捨てるだけ

代わりは溢れている
そんなヨノナカ
壊れたら
使えないモノ 使いにくくなったもの
飽きたもの 鬱陶しくなっただけなもの

もっと良いものが出たんだって
ちょうど良いからかえようか
ほんの少し使いにくくなっただけ
ほんの少し動きが悪くなっただけ
ほんの少し周りと違ってしまうだけ
有機物無機物
どちらも同じ
良いものが出来たら
扱いに困ってきたら
必要なくなったら
どこか壊れたら
用が済んだら
邪魔になってきたら

ツカエルモノニ
カエマショウ
イイモノハ
アフレテイル

それがヨノナカそれが世界
邪魔になりませんように
何とか役にまだ立ちますように
いくら願っても
とどく事はありえない
唯一の歯止めは
セケンテイ
それさえ超えれば
いくらでも交換できる
いくらでも変わりはある
こわれたら
捨てましょう
用が済んだら
邪魔なだけ

“イカサヌヨウニ コロサヌヨウニ”
“ウタヲワスレタ カナリヤハ
ウシロノヤマニ ステマショウカ“

古い唄でさえ
今も昔も本当には変わらないことをささやく

生き物の世界
種が生き残るための自然到駄
それは本能という物が
DNAのプログラムの
自然という物の流れ
それとは違うもの
カンジョウ
感情
それを得たために
ヒトという種は人になった
そして
何を失った?

かみ合わなければ
感情が気に入らなければ
捨てる事をする
感情が
自然では無い “人為到駄”を広めていく
強い物を求め
弱いモノは排除
利用できる物は利用し尽くせ
それが暗黙の了解
何重にもなったコトバのカイワ
聞える音は
本当でなく
その後にあるたくさんのコトバタチそれが 本当
それが繰り返されていく世界
要らない物壊れた物
主の感情ひとつで決まる
“モノ”たちに
意志などない
本当はあっても

ただ捨てられないように
ひっそりと
それでも世界は
容赦ない
もので溢れていく世界
便利さと引き換えに
感情と引き換えに
いろんな物を
なくしていった
なくし続けていく

世界が違うというだけで
何があっても認めない
そうして
セケンテイという歯止めでかろうじて繋がっている
まだネジを巻けば動くから
まだ代わりができていないから
それまでは
使おうか・・・


オワッタラ
ヒトリデヤッテイキナサイ
イマノウチニカンガエテオクコト
そして
ナニガアッテモミトメナイ

信じるとはなんだろう
聞いたコトバを実行する事
それが
このせかい・・・?
それが
信じる・・・?

人が人になりたかったのは何故
人が人になりたいために得た感情
そのために
たくさんの物が
他の種にはあったたくさんの物が
何かが
大事な物が
引き換えに

何を無くしたのだろう
何を引き換えに
そうまでして
人になった

ヒトが人であるために
続いていく
感情 到駄


<日記>05年9月頃

05年9月頃
イキクルシイ・・・
ソボは、おとといの2世の子供の世話を一日して、そのため腰が痛くなったと、自ら手を出しては訴える。カノジョには原因は言わない。ソボは、おとといの、カノジョタチが遊びに行ったときの2世たちのこと、それと、お風呂のこと、他にも、言いたい事たくさん。私の様に、飲み込んで苦しくなる事に耐えられない。黒子は、祖母の、当たり役ためたもののぶつけ役。
でも、子供の世話は、彼女たちは後でこうなることがわかっていたからやめてほしくても祖母は手放さずに、そして、ひたすら甘やかし怒らなくてはいけないところだけ彼女に引き渡すだけだった。ジゴウジトク わかっていても 祖母の、これが、“捨て”られないための自己防衛の方法

05年9月頃
ソボのお風呂と、カノジョタチが月参りに行ったので留守番。出かけた後で、ソボが、粗相をした。カノジョに内緒にしたいので、汚れたトイレの後始末と、触ったところの消毒、洗濯。
内緒にしないといけないから、いつものように、前の祖父母のときのように、影になった。いつも、何処でも、何でも、ワタシは、影、そのための、コピーだから、クロ子だから。
カレ(チチオヤ)は、夕方、突然の仕事で出て行った、一度戻って御飯の後、また、出て行く、帰りは、明け方。そして、忙しい“休日”という名のシゴトの日が終わる。
感情があるかないかの違いだけで、ヒトもモノも何処が違うのだろう。どちらも使い捨てで、ただ、使う側になるか使われる側になるかの違い。ヒトもモノも溢れて、たくさんあるから、その場だけの使い捨てが、多くなっていく、役に立たない物は、排除されていく、ヨノナカは、世界は、ヒトとモノ、有機物と無機物、区別が、わからなくなっていく。今日は特別に頭が痛い。わたしが“者”で居るのはいつまでだろう、それとも、いつの間にか、それとも、最初から、“モノ”だったりして
  何かが乾いて干からびていく

【コメント】(琴)

  要らなくなったら、削除。要る時だけあればいい人やモノ。伝え聞いた、保健所の愛護センターの実態と重なって、わたしに延べられる手は、どこまでわたしのところにあるのだろう、“手”は、センターの犬たちにとっては、まさに命綱。
  そして、見えないそれは、わたしには…いつ急に、いらなくなって捨てられるのだろう。感情一つで消える手を前に、消えてしまう時が怖くて、つかみたくてもつかめずに空振りばかりしているわたしがいる。
(2008年7月 記)



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