主観と客観  05/9/28


この“中”の
“ワタシタチ”の誰かに
何か起こると
誰かが何かを起こすと
いつも昔から
もう一人の“私”が見下ろしていた

そして次に起こすべき行動
本来起こすべき行動と
其処 ココに合った“フツウ”といわれる行動と
色々照合して
指示を出す冷静な“誰か”が 必ず “居た”

だから
そのわけが解ったとき
それが“フツウ”というこの世界のヒトは
そうしていない そうならない事が
そうしていない事をしている世界に居る事が
解ったとき

ほっとした

でもそれは
ナニガアッテモ ミトメナイ
そして
わたしの誰かの指示する人でさえ
その人の位置する立場から
あるていどでも
ワカッテイルと思っていた
ワタシが何人かで互いに客観視している事を

事故にあった
大切な物 個人情報その他
慌てる“当事者のwatasi”
それに対して客観的に理性的に分席判断している
ワタシタチの中の “トウジシャ”でない“watasi”
昔から
常に居た

“理性が強い”
そういわれる
どんな状況でも
マニュアルどおりにシナリオを書いて
指示するものと されて動くものが
同居
それが
自然で当たり前
ずっとそうであって
そう思っていて
それが当たり前だった
だから

わからない
どうして

ソノウチ ワカルヨ

笑ってそういう答えが返るだけ

解らない
どうして
解らないん だろう
誰もそれをわからないの
主観と客観の境目
血縁という物
感情が絡む
だから
血縁の中で誰かに何かがあったとき
自分がその専門であっても
自分は其処には携わらない
そういうものでしょう
それが
あたりまえでしょう
“主観”がはいるから
決まっているでしょう
制度になっているものもあるでしょう
おかしなことを言う

どうしてそういうものに主観
主観が入ると何があるの
しゅかんとは
なんだろう
客観といわれる物しか
いつも
誰に対しても
わたし
そういうものにも
皆が言う主観が
見えない
私も他人も
だれも
わからない
そして
ヤミが広がっていく
とうめいに
なっていく

<日記>05年9月頃

また、今私がここでこの作業をしているという実感が少し遠い
答えがない、賭けの、答え。それでも、後数年後、賭けにカンケイなく決まっている。カノジョは何一つ記憶のないコトバタチ。“ソボの最後までの世話のためにココに居させている”“今の仕事が数年後の上司の退官で終わるなら、他にあなたにできる仕事は無い”“そのときに一人でやっていくように、ココを出て”。だから、ココを出る、後数年で、役目は、リユウと意味は、終了、だから、要らない物になる。時間がはっきりしないだけで。
これはわたしのことなの、他の誰かのことを見ているみたい。でも私は、わたしという駒を動かす
かみ合う事がない。合わない歯車。いつまで使う。数年後まで。要らなくなるまで。そして、そのとき、仕事もなく、一人暮らしでフリーター、ヒトとどうしても合わない以上どうしようもないから、 うまくいって派遣で飛び回るという可能性も、病気というものを何であっても持っていると、消える事。どのみち、数年後は、どうにもならない。

【コメント】(琴)

   主観が、いつも、一歩遠い。私から半歩離れた所に私は立って、わたしの行動を見下ろしている感じ。だからなのか、どうしても、家族という最も多くの時間を過ごす人の中に、わたしの身に起きることの困りごとの専門家がいたらどれだけいいかと思う。

  でも、主観が入るから、そう言って、誰もが、専門であっても、そういう対処は家族にはしない…そういう答えしか返ってこないことが、私自身すら客観に見えるわたしには、どうしても理解しがたいもので、最後まで判らないことでしょう。
(2008年7月 記)


   TOP   >  唄(ウタ)と日記   >  主観と客観           ← 前へ      次へ→