幸せの分け前  05/9/30


みんな自分 最後は自分
ジブンが満足でないと
周りは見えない
それが
ニンゲン
さびしい生き物
常に何かを探して行く求めていく生き物

周りに“優しさ”
その分け前
それは
自分の中の自分のための
“器から溢れた分”を
あたえる
それが
ニンゲンの間系

それぞれの器が満たされるときその増減の動きの中で
溢れた分を溢れたときだけ誰かに与え合う
そうして一定
質量保存 エネルギー一定の法則
同じように過不足が一致した折り合いの総量ではシアワセ一定の法則

幸せ
一定の
そうして支えあう
それが人間
だから人間
幸せを求める何かを求め続ける生き物


<日記>05年9月頃

ソト子が仕事はしていてもどこか狂っている コトバが通じない事が多い 仕事のことが通じない いわれていることも 何がどう通じないのか いつものようにコトバを作ってからができない。ソト子がヒトとのかかわり 外に行く事 それが 狂ってきている 主観 客観 理性 混在 ダレデモオオカレスクナカレヤッテイル じゃあどうして この過不足は補われているんだろう

【コメント】(琴)

   周りを思いやることができる唯一のものが人間、でも、とことん憎みとおすことができるのも人間。
  悲しいけど、自分や家族にゆとり、人が抱えられる事象の一定いないである時しか、自分以外を見ることができず、手を差し伸べることができない。

  “自分の幸せを見る一定の入れ物”をいつも満たす、自分に“ゆとり”の空き容量ができると、それを埋める方に働くことができる法則があるみたいにして、“幸せ”というものは、総量としては平均“常に一定”で分け前をめぐっている、エネルギー一定の法則と同じように。

  そう思えて仕方がない、そうして、そういうとらえ方でしか、幸せを理解できないわたしがどうしても居てしまうことが悲しい。
(2008年7月 記)


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