永遠の未完成――もうひとつのパズル  05/10/10


全てのものが
一対であるように
わたしというパズルと
もうひとつ
パズルはあった
キーワード
AS
そして
見つけた10月1+日2+++年
完成した拒絶されたパズル

鍵は目の前
其処にあるのに
使えるのに 使えない鍵
知れば知るほど
“イキクルシイ”
でも
せんせいと道標となった人
感謝

見つかった自分
拒絶しかなくとも
認められなくとも 理解はなくとも
世界は違う
ちがっただけ

異邦人は異邦人

ナニガアッテモミトメナイ
ドウシテ ソンナコトガ デキナイ
重大事項も
“フツウ”では“なんでもないこと”で
ソンナコトガ キニナルノハ “オカシイ”
コダワルナ キニスルナ

それで封印されていく日々の時間
見つかれば見つかるほどに
遠くへ行く
一度完成したパズルは
封印されようとしても
組みあがった以上壊れない
認められなくとも
目の前の答え そこにあるのに
手を伸ばして掴む事が出来なくとも

でも
“対”に成った“もう一つ”があった
全ての事象が表裏一体であるように
これにも”対“の
ひと組が
それが

主観と客観

それが
“裏”のパズル

客観しかなかった
わたしの中の誰かが
他事 触っているそのときの
“当事者”には常に 理性で冷ややかに見つめる者が居て
こういうカンジョウをもってこういう行動を と
マニュアルを探して指揮をとるものが常に居た
それのキーワード
“主観と客観”
何10年もかかって
見つかった
キーワード
ワタシタチがマニュアルを持ち
ワタシタチがトウジシャでもそう感じない
よく言われることは
“自分の危険を顧みない行動ばかりする”
それが
その答えが
ワタシタチの世界の答えが
そのパズルにあった

“主観”

それが
これは自分に起こっているという感覚が薄いことが
自己の中でも複数の自己と互いの客観視
そうすることで安定しているセカイが
何かが欠落しているからそういう手段で世界を作った
そのなくしたものが

“客観”

主観の対に成るものしかないから
主観がどこか 感覚がないから
どうして が 増えていくだけだった

AS
鍵 パスワード
ワタシタチ
それに
“主観”を与えれば
そういうカンジョウを与えれば
それが
わたしだけでなく全てのASのキーワード
“ココのフツウ”になるキーワード

どうしての 問いかけ
くりかえした
そしてわからないまま目の前の人は言う
「この話題はココまで」
キニシナイ カンガエナイ

後ひとつ残ったままで
組みあがらずに封印されたパズル
最後のひとつが
はまらない
はめる事が出来ず
どこかへ行く
封印
主観客観
客観しかない事の答え
全てのワタシタチの世界の答え

人工知能が完成しないことと似ているね
プログラムに沿って感情があるように見せて条件反射のプログラム
プログラミングされていない出来事に対応できない
そして
“自分”と“意志”を
もてない
それが組み込めないから完成しない人工知能
それがないから感情が理解できないロボットたち
全てか無機質
全てが“モノ”
イレギュラーな事 未知の物

微妙な感情
それが処理しきれなくなると
“フリーズ”する
混乱する
だから
“完成”しない
だから
つくれない

一年前の表パズル
ジブン探しのパズルが出来上がった10月
その一年後の10月
もうひとつの裏
“対” の パズル

鍵は
最後のひとつで
ピースは
最後のひとつで
未完成

未完成が
“完成”

ココマデ オシマイ
未完成の完成で
そのままで
永遠に
流れていく

さよなら
さよなら


<日記>05年10月頃

ジブン探しの答え、ジブン探しのパズル、出来上がった表のパズル、その裏に、対になったもうひとつ。主観というパズル。これを完成させることは、してはいけない事なんだろう、だから、これで、おしまい。
琴子は、主観という物を知ってみたかっただけ。契約のない信用という実体のないもので得る安心というもの。ワタシタチはすぐにヒトが発する言葉の表面の文章を信じるからだまされやすいらしい、コトバをそのままに信じて困る、そういわれる。でも、信じるなんて事は、知らない。した事は無い、根拠のないものは、ウソに変わるから。だから、どうしても、いつもすべてに意味と理由を探してそうしたくて仕方が無くなる。コトバを受け止めて守るだけ。それだけ。それを、信じると、ココのヒトたちがいっているだけ。一番表面のコトバを指示として受け取る事しか知らない。
主観がわかれば、感情、信じる、そういうものがわかる、繋がっていうとソト子の分析。だから、“手”が欲しかった。だから、せんせいを選んでしまった。でもそれは、せんせいには、患者を選ぶ事が出来ないために、せんせいの、不幸だね。だから、このテーマを終わりにし、パズルは未完成で完成。

【コメント】(琴)

   わたしという、おそらく主観となって、自分が自然に自分でいるという状態が、表のパズルだったのかもしれない。
  でも、わたしが、このからだの中でいつも主観で無意識に動いているという感覚がひどく少ない、いつも、“もう一人”が指示して、動かしている、離人感。そんな感じ。
  わたしには、主観でいられる、自己を主観として認識して、感情を持つ機会が、どれくらいあるんだろう。
  パズルのピースは、見つからない。
  最初から最後の一つは、なかったのかもしれない
  一度でいい、心から、何かを感じ取るということを、してみたい。
(2008年7月 記)


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