駅の名は   05/10/15


まだホームに居る
手の中の切符
書いてある文字は
“入場券”

あなたの切符はなんて書いてあるの
何処へ行くの
駅名は何処になっているの

何かを悟ったように静かな人たち
穏やかに
自分の列車がくると乗っていく

ねえ
わたしのは
いつになったら
いつまで待てば
乗れる切符になるの
乗れる列車は 来るの

泣いている人も居るね
次の電車に乗らなくてはいけないと
ひとりで
それとも
ともに行く時間がずれてしまった
互いの誰かと
いつたどり着く駅で
再開できるかわからない時間を
悲しんで
すぐだからと
慰めて 一時の別れを見送る人たち
ホームで待っている間に知り合った人同士
また行き先でねと 手を振りながら
たくさんの人が行きかう“時間のホーム”にて

一人で泣いている人がいる
まだここに来たくは無かった
まだ列車に乗りたくないのに
まだ 置いてはいけないたくさんの
多くの守るべきものを
護りたい者たちを残しては と

あなたの切符はなんて書いてあるの
よかったら
わたしの切符と交換しませんか
そんな人たちに繰り返し問いかける
でもその度に
答えはどうしてもおなじ
泣きながら
したくてもできない悲しさにうつむくばかりの人たちとわたし

他人の切符 
その人の時間だけは誰とも交換することができない
ひとりごとに決まっていてだれもがそれを受け渡しできない悲しい仕組み
わかっていても
どこかでそうせずにはいられずに
たくさんのものが必要とする人と
そうでないものが
代わることが出来るなら と

交換できないの
交換したい
ねえ
乗りたくないなら
いいでしょう
行き先は何処
どの行き先でも
“イキテ”いた世界では無い
だから
電車が来たら
そうしたら・・・

駅名は何処
思い出の駅
それを過ぎて
過去を走り去って
そして
輪廻

終着駅は
最後の輪廻の行き先
もうこれ以上また“戻る”事がなくなった者たちの行き先の駅
そこへいける切符
その駅名
それを持って泣いている人
どうか
誰か居ませんか

通り過ぎる列車
乗っていく人たち
全ての者達
だれか

また見送り続ける
穏やかに笑って乗り込んでいく人たちを見送って
涙を流しながら絶えず振り返りながら 乗っていく人も
そして
行ってしまう列車
次はいつ
行き先は何処
駅名は

入場券が見える
それ以外が
全てトウメイ
トウメイな世界
静かな
ホームに
行ってしまった後に残された
ただ とうめいになって
椅子があるだけになったホーム

あなたの駅名は
わたしの券は
交換しましょう
トウメイな世界へ
虹色の
きらきらの
トウメイな世界に

駅名は何処
ホームにて
券を
下さい
列車に乗れる券を

泣いている人がいる
乗りたくないと
駅名のある切符

交換しませんか
交換してください
わたしには
もうトウメイだから


<日記>05年10月頃

05/10/○
今朝は何時に起きなければいけなかったのだろう、“居候”は、いつまでなの。収入が安定しないからアパートも捜せない、でも、置いてもらっている事だけでも、ありがたいこと。だから、怖い。なんだか、急速に、動かしにくく、不調が進んでいるようだ、このイレモノは。でも、致命傷に至らないことが、もどかしい。
何か“したい”が、気がつくと、みんな、“しなければいけない”に変わっていた。自分を見つけてホッとした10月、自己分析をして理解が進むほど、このセカイが、トウメイに、遠くなっていく、見つけたかったものは、見つけては、いけなかったのか。でも、これほど、最高のプレゼントは、なかった。キーワードと、道標として導いてくれた、“手”。償いきれないほどの、感謝。
05/10/#
客観しかない世界観。だからこそ、身の安全とかそういうものとは縁遠い行動をとる。自己に起こっていることさえ映画でも見ているようにしか感じないから、条件反射的行動となる。もちろん、その中に、“わたし”は居ない。マニュアルがかみ合わないココだからこそ、余計に狂っていく。なにもかも、望みも希望も消えていく。望みも、わからなくなった、あったのかも。無かった、最初から、そうかもしれないと思えてくる。全てがトウメイ。そして、数年後、全てが重なる“数年後”、そのとき、わたしは、まだわたしだろうか。
何処へ行っているのだろう、ここにだけは、もう、そのときには、“此処”での意味も無いはず、だから、“此処”には“居ない”、ヨノナカ セカイからも、居ない、それが望み、ただひとつ、他には見つからない。最初から、あきらめる事が一番いいことを此処で覚えた。最初に覚えた事。だから、ここまで、耐えた。でも、数年後には、もう、・・・表現できない。
トウメイ。イバショは、障害というトウダされるべきとされて、そうして扱われて行ってしまうだけの物を遺伝子として残した目的はなんだろう。少数ながら残していくのは、自己を顧みないそれが出来ないから、客観しかないから、それが、科学の進歩に必要だからなのか。科学に主観が入ることは、狂った物を導く。いらない物でも、ちょっと使うために、少し残しておこう、全てが使い捨ての世の中にふさわしい
だから、わたしは誰の手も、怖くてつかめない。掴んでいいといわれても、それで、その人まで荷物を持たせてしまうから。自己矛盾が生じる状態では、どうしようもないから。だからどうにもならなくても、壊れても、手をどれだけつかみたくても、繋がらない。“いいよ”の根拠がわからないから。振り払われ続けて、疲れた。待ち続けて、疲れた。
わたしは、誰で、何処なんだろう。わかることは、数年後に、すくなくともその時間には、このヨノナカとセカイと 遮断されていなければ“生きる”を続けることは限界だという事。

【コメント】(琴)

   生きる、なんだろう
その人がたくさん必要されているならば、そうでない私は、その人に、わたしの残り時間をプレゼントしたい。
  その人が、時間が来て、電車に乗らなければいけなくなったら, 私の切符と交換して、わたしが代わりに電車で、時間の最後に行きたい。
  生きたい時間を持つ人と、それを捨てる人。時間を交換できることも、いつまでかを知ることもできない、どうにもならない唯一のもの。
  誰かが逝ってしまうたびに、大切な手が逝ってしまうたびに、わたしの残り時間をみんなその人にあげられたなら…そう思わずにいられなくなってしまう、です。
(2008年7月 記)


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