わかる外国人とわからない異邦人  05/10/19


目で見てすぐにわかる人
国が セカイが違うこと
その人たちは
考え方や 文化が コトバが違うから
肌の色 髪の色 目の色 背格好 服装民像衣装
みてわかるでしょう
目でわからなくてもパスポート 国籍としぐさと言葉

私たちにはわからないことが有るから
だから
“容認するべき”

多様性
それを認めるというコトバだけがあっても
回る実際 社会の中ではそれは無い
有ってはならないこと
でも
認められることがある
それは
 “気分次第”
イレギュラー
最初のマニュアル
決まっていたルール
無理やり合わせて
続けてきた
それに当てはまらない
それが許される
“文化の違い 世界の違い 外国人”

そう 最初から
“公の認められたレッテル”があるヒトは
多様性と容認
レッテルのない私たち
そっくりでも
セカイもコトバも感覚も
まるで違うことを容認されない
同じもの
そう“見える”見えてしまう
そういう形でそういうふうに出現したために
“構成”は違う
それが解らない
見えるものが
“有る物”で
見えないものは
“無い”から

多様性のすばらしさ
そういいながら
同じでないといけない
同じにしていると
いつも同じではいけない
マニュアルは
マニュアルでなくなっていく

見てわかる外国人
わからない異邦人
同じ異邦人
でも
認められない
異邦人
外国人には“祖国”が有って
其処が帰る場所
祖国が有っても異邦人には“祖国”が“無い”
帰る場所が無い

セカイは
違い続ける
国籍がありながら
無国籍
無国籍という国籍
国籍のない世界
国籍の無い国
誰も知らない世界

そこが国籍
そして
出現した場所も
国籍
国籍があって
国籍のない
セカイがあって
セカイがない
多様性があって良いと言いながら
集団内では異質は排除
おかしいね
矛盾
ことばが
違い続ける
おなじ言語を使うから
使うことの意味するものは違っていても
だからよけいに
“言葉が通じない“

どれが本当かわからない
そして
わたしのコトバも
“わからない”
イミガワカラナイ
ミトメナイ
繰り返し続ける

第一印象が全てを決めるんだってね
ほんの1分ほどの
最初の時間が
数年間を決めるんだってね

いろんな国で
いろんな国籍
そこに属しながら
そこには無い国籍
見えないから
“無い”

外国人
異邦人
せかいは
そうして安定していく


<日記>05年10月頃

 5/10/#
昨日はまた、新しい事がわかった。明らかに外国人であらば、多様性というものは容認される。しかし、同じ日本人とどう見ても変わらず、言語も、独特であっても同じものであれば、“容認”はなく、容赦なくトウダされて行く事。ドナさんたちが、イバショを転々としなければいけなかった理由、これなのかな。
長く、ひとつの所にいればいるほど、最初のように、“わからなくても知らないからしょうがない”、”まだ着たばかりでなじんでいないから“、”まだ此処の人たちとのかかわりが浅いから“。
そういうものが、なくなって、最初のマニュアルが変わっていっている事に気づかずに、いつのまにか厄介者に成っている。そして、多様性とは認められない。
ルールを守っているはずが、応用が利かないに変わる。ちゃんと言ってよ、ルール違反をしているひとがいたから、ここでそうではいけない、それでも思いどおりにしようと繰り返するヒトを、注意した。そうしたら、ワタシが悪いの。
ソト子はルールを守ってもらおうとしただけ。でも、外国人だからそれでいい、“アナタノコトモ ミンナタクサン メ ヲ ツブッテルコトガ アルケド ダマッテイルノ カモ シレナインダヨ”、何だ、「仕事が出来ればいい」、そんなコトバの裏は、何処まで行っても、人間関係というものがかみ合わないと、セカイが違うと、厄介者だったんだ。ちゃんと言ってよ。
嫌われ者になっているけど、嫌いだけど、言わずにいるだけだって。もう、捨てよう、みんな、コトバを捨てよう。何も言わない、ただ黙って、後始末をしていけばいい、そして、いつでも、クビにしたくてもできないからいさせてもらっていることを、しっかり記憶。
5/10/##
どうしても、異邦人。ルールを壊さない様に、とした事で、一騒ぎになったことを謝った。あのヒトは、“外国人だから、違ってもいい”、あのひとのやり方でいい、“お国柄”。多様性やルールを壊すものへの容赦なさ、それが特に強い日本、それでも、“外国人”と“はっきり”している、国籍のある人には“お国柄”というコトバで“目をつぶる”というルールがあった。日本人で“無国籍”の、ワタシタチは、消して許されない、沈黙しか道のないルール。
頭が割れるみたいに痛い、みんな、わたしで、わたしは、いない

【コメント】(琴)

   いろんな国の人と居た、数年間の場所。
最初にそこに入った時は、来たばかりでは“異邦人だからと許容されたことも、いつまでも分からないと、我が儘へと変わっていく。
  いい加減わかれ、空気を読め…そう言われても、いくら見ても、空気は、透明。
  使う言語も、わたしが使う言葉の意味と、他の人がとらえている意味が、ずれているらしくて、同じ単語だけに誤解も多い。
  いつまでたっても変わらない私にいらいらされても、誰も、外国の人は責めない不思議。
  お国がら、宗教、考え方の違いは変えられない…そうして最後まで、その人たちは許容
異文化でも、感性が違っても、言葉の意味のとらえ方や使い方が独特であっても、国籍が同じ、言語発音は同じなだけで、日本人の中の異邦人は、すぐに“認めない”に変わっていく。
(2008年7月 記)


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