ひとりは“ひとり”なのだから  05/11/21


ひとはかなしい
どんな生き物でも
最後はいつも自分
いつも本当は”じぶん”というものを抱えるだけで
そのひとつの”個体”を抱えるだけで
手一杯

いつでも”手”を延べて“いいよ”
そういいながら
そう言える時は
ささやかな
”ジブン”というものを支える事にゆとりが出来たとき
それをいつもと “いつでも“と
”いつもある”と
つい
勘違いして
みんな“手”を誰かに求める

ヒトハ ヒトリデハ イキラレナイ
みんな助け合って
ささえあって生きている
それがニンゲン
でも
そうやって
”共存”して生きていると
そう見えて
そう
実際そうしているところもたくさんあっても
さいごは
誰でも何があっても
”ジブン”しか居ない
最初から最後まで
ほんとうは
一人しか居ない
そうじゃないといいながら
”本当の”姿を見ない

かなしいね
だから
もう
誰かに手を延べる事
それは
”ジブン”にゆとりがあるとき
もしくはそれが
シゴト
それが
何かの引き換え条件
それ以外では限りなく100%
分け前を持っているときだけの言葉
いつもあるものではないこと
つかみたいときと
つかんでも良い時は<br> 一致することが無くすれ違ってばかりいて
だから
しないほうが
知らないほうが
”ジブン”は立っている事が出来る

そう
やっとわかった
共存しているという形だけで
ほんとうは
最初から一人
さいごも
ひとり
手なんて
幻想
だって
ひとり
一人はそのもの
それ自身“ジブン”という“一人”で
みんな
手一杯なのだから
支える事は
手放しで無条件で支える事は
“手”は
いっぱいで
溢れんばかりなのだから

それでも助けようと手を
いつも用意しようとする手
でも
それがあって
差し伸べてくれても
それは需要と供給のアンバランス
けっきょく足りず
いつもいっぱい
それ以上つかんだら壊れそうな手に
どうして つかむことが出来るだろう

だから一人
最初は一人で生まれて
そして
また還っていくときも
一人
けっきょく一人
最後は一人
だから
忙しくて
自分たちでいっぱいの手たち
知らないほうが良い
一人なのだから
さいごは
どうしても

最初と同じに
還るだけ
だから
無かっただけ
最後もないから
おなじこと
ひとり
たどり着くところはいつも
ひとり
なのだから


<日記>05年11月頃

ソト子は大丈夫だろうか クロ子は 
また 役者は今日も始まる 誰もいない 大きな舞台 クロコは独り
疲れるでしょう、いつでも言いなさい…そういっても、声をかけると、今忙しい…帰ってくる、繰り返し

【コメント】(琴)

   挨拶と同じに使われる言葉、「何かあったら」、「いつでもいいよ・・・」。
  本当にそれがつかむことのできる“手”になる時が、実際にどれくらいあるだろう。
  いつでもと言いながら、人は自分に、自分とその優先するものに手いっぱいな時には簡単に手を振り払う。
  いつも戸惑う、“いつでも”って、“いつ”のこと、24時間いつでもなんてありえない、最低限それくらいはあるでしょう・・・。
  それなのに、どうして、いつでも“手”をいいよなどと言うのだろう。
  からから空を切るわたしの手、いつでもいいよは、ただ、怖い言葉になる、わからないだけの。そうして思い知る、ああ、最後は、手は、自分だけしかどこにもないのだって…。
(2008年7月 記)


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