行き着く場所  06/1/15


時という物が
流れていく
その中で起こるたくさんのこと
全てのこと
どんな事にも
必ずどこかで“対”になって起こる“何か”がある
そのときは その先も
誰にも見えず 気がつくことも 無いものであっても

始まりは
終りに向う“始まり”
“出遇う”歓びは
同時に最後に必ず来る“別れ”を受け入れること
必ず最期にそれが起きる
それに出会うことになる
覚悟
それを

生きる事にしがみつく人たち
もっと生きたい
もっともっと・・・

どうしてそう思うのだろう
どうして

“死”という“終り”
この世界に送り出された事
その生きるということは
嬉しい事
だから生きたい
生きていればいいことがあるから
幸せになりたいから

どうしてそう思うのですか
どうしてそういうことを感じるの

死という終りの無い生はゼツボウ
不幸を知らなければ幸せも知らない
感覚が無ければ
何も感情が無ければ
対の2つが同じもの
正反対には見えなくなる
ひとつになって
同時にやってくる

ただそれだけ

幸せになりたい
“幸せ”って何
何と比べて何を言うの
イキタイって何
“死”がどうして嫌なの
それが無いゼツボウを知っているの
苦しくても
死が近くても
どうして逃げるの
それが来なかったら
“生きたい”も
“生きる”も
ありえなかったのに

光があれば
必ず影がある
影があるから
光があることがわかる

でも
“光”のほうばかり捜して足元を見ない
その“対”である“影”が其処にある
足元を

転んでしまうよ
対の2つをもうひとつを
ちゃんとみないと

ほら
ころんでしまうよ・・・


<日記>06年01月頃

最後まで一緒だと思っていた、最後に綺麗な青で、名前も、わたしの好きな音とイミだった車。わたしが先に逝かせる事になった。使い捨て?
ミラージュ、影、幻影、大好きだった、ワタシタチと同じ、影。今度は、明るい色の中古、わたしは中古しか乗らない、その方がいいから、誰かの使い捨てでイイ。これで最後、今度こそ、影にはふさわしくない色、わたしには、合わない色、綺麗なものに、汚い物が乗る、でも、他に、もう、選択肢は無いって。今度こそ最後で、でも、わたしはミラージュと呼ぶ事にした、それでも、車は、嫌でも、従う、かわいそうかな、わたしは、ひどいヒトだ。
家は“みんながいる”ところで、“何かしている”ところで、一人で“休むことをする“なんて、出来るはずが無い、だから、どうしても、ココでは、難しい、もう、いつ無くなってもおかしくない仕事になった、苦しいだけの、ヒトとのことで、苦しいだけのソト子も、終わる、そうしたら、出て行く事をカノジョが、やっと許してくれた。クロ子も、これで、終わる、でも、そのときには、今度は部屋を借りる事が難しい条件がそろいすぎている、でも見つかったら、コドモが、みんな、これで、セカイになる、たくさんの苦しいは、そのためだよね、きっと。

【コメント】(琴)

   終わりは、うれしい、でも、終わりというものすべてを、悲しいことがあっても、うれしいの始まりが、終わりの始まりだから、そうしてそれがあるから、人は生きていられるのに、最大の、死という終わりがありがたいと思うことを、忌み嫌うのは、どうしてだろう。
それがあるから、生きるが、初めてできるのに。
(2008年08月 記)


   TOP   >  唄(ウタ)と日記   >  行き着く場所        ← 前へ      次へ→