みっつの”母” 〜考察〜  08/05/14


ある本で見た
一つのセンテンス
深くて浅い人と人とのつながりの意味
切れない切れた鎖
その意味

“母”
意味は“三つ”
ひとつ
遺伝子を同じくする提供者
ふたつ
自ら体内で育てて世界に送り出す者
みっつ
送り出された命を育て
社会に適応するまで付き添うもの

一般に
大多数は 三位一体
まれに3人もしくは二人


一人の未成年に対し
社会的遺伝的過程的すべて
存在に責任を求められるもの
なぜ
彼女でなければ
世界は通じないのだろう

何かのシステム 選択
処方に制度にかかわる時
どうしても
“親” 母
その登場が必要という不条理な条件
親族で無ければいけないという
第三者には
いかに比較にならないほどに
かかわり絆が深くても
見合うことはできない
遠くから来たにもかかわらず
見会うことができない
そうまで親子が
どれほど重要な意味があるのか
と・・・

どうしても
考えが行き着いてしまうところが決まってしまう
どうして
”許して”くれないのだろうと

カノジョに登場してほしくないのは
認めないという体制をとること
それが
子も母という名の彼女も
つらいこと
でも
認めてもらえば
わたしには
生まれてきたことへの罪悪
カノジョには
こういう子を生んでしまったことに対する罪悪
それぞれが
一人でセケンから大きな荷物を背負い込む
それの連鎖
一生
続けていくだけの

そうなってしまう
そうしてしまうわたしが此処に居るということが
やっぱり苦しみしか招かない
なぜに
家族
書式に乗った
親族

母 であらねばいけないのか

互いに孤独にそれぞれに
互いを思って苦しむか

だから、体を壊していく
リスカで
痛みで自分を確認する
体重を減っていくのを楽しみに
そうして中性を保つこと
それぞれの性別に望まれ
親が持つ子への
将来像をあやふやにする
なるべく
どちら側にも立たないことで

差別する側にも
される側にもなりたくないから
そうしていくしかなかった
される側の苦しさを
する側になってしまうことを
同じ苦しさを連鎖させることを
ただ連鎖を切るしかなくて

如何して血が
遺伝子が
社会的母が
そんなに大事なのですか
血を言い訳にして
ただそこに生まれたとい言うだけのものを
背負わせたいのですか
背負うほうも
背負わせるほうも
どれだけ苦痛か
望んだものでなくただ
居合わせただけで

それでも責任
そう決めた人は
どれだけの何を知って
そういう風に決めたのだろう

幸せ、家族、つながり
いったい、なんだろうなんですか
絆が鎖に変わる時
温かい
絆というものを
重い枷のついた鎖に変える瞬間

成人になるのは、何のため
成人式は、何のため
独立、ひとり立ち 
自立を促しながら けっきょくは
親の元

矛盾だらけの
荷物を背負わせる相手を決める
おかしなせかい

生んで、生まれた、それだけで
共倒れになれと責め立てられるようで
認めるのは
自分だけでいいじゃない
当事者だけでいいではないですか
当事者が成人となっていれば
社会的責任をすでに求められているのに
肝心な時に責任を其処に求めない
"社会的母"にそれを求める世間
なぜそうして彼女ばかりを責めるのですか
本人が望めば自己責任それでいけないことはないのではないですか
自己責任でいいでしょう
それを望んでいるのです

でも
何がそれでいけないというのか
そんなに
ただ、規格外とでも言うように
創ったものには作った責任を
出来た製品はそれなりの処置とそれなりの処理を
そういう工場製品か

“ころされるために
いきているのか“

自分で自分を傷つけなければ存在すら確認できない中で
どんどん消えていく自分を追いかけて繰り返して終わりを待つ
それしか
無いとでも言うように

成人なのだから
親の承諾なしでは・・・ってのは変だと思いませんか
自身が希望するなら
そう主張していいと思ってはいけませんか
申し訳ないと思うのは私の方
友人って言うだけでは
やっぱり立場が弱く信頼されないの

でも
これは裏を返せば
障害をもった子を産んだ以上
母親がみんな背負って
生きろっていってることと同じ
親は親ってだけで信頼されるような気がして
子は罪を背負わせるだけの存在にしかなれなくて
そうして互いに死んでいく

共通する、疑問と、回答
答え
―――そう 痛みでやっとまだ
自分が居ることを確認そして 
後どれくらいかと数えてみる 
後どれくらいこれを繰り返さなければいけないのかと

本当に、ご免なさい

親子関係
これだけは
良い関係の親子で当たり前の中にひとには
親子が支えあって生きている現場
“それが当たり前で普通“
だから
「距離で安定する親子」は
わからない
わかってもらえない
だから
離れていることで護ろうとすることは不思議
不可解で
悪い関係にしか移らなくなって
だから
如何して
それならそばに居て大事にしなさい
人は口をそろえて言うだけ
そばに居て
安心させてあげなさい・・・と

それを聞くのがこわいから
世間は
事件になってからしか気がつかない
うまくいかない関係で
お互い傷つけあって
爆発
周りは誰一人気がつかなかった
そういうものが
見えないだけで
まだ爆発しない状態でどこにどれだけあるだろう
そうなるのは
如何してだろう・・・
それを、誰が、考えるだろう
親を護ろうと血を流している子の気持ち
親への大きな求めをする子
子を護ろうとするつもりが
過干渉になっていることに気づけずに
悩み苦しむ親
それでもそれで正しいのだと
それぞれに自分で自分を傷つけ続けていく家族
水面下の世界


離れて安定するならば
その距離で進んでいけばいい
そうして平行でいけばいい
何度も 常に 交わることが
互いや自らを傷つけるだけならば
大丈夫
そういう距離まで離れていこう
方向だけを
あわせていれば
それで同じ場所には進む

家族がひとつというならば
電車と線路で走ればいい
電車は線路が無ければ走らない
一定の距離
交わる2本では壊れてしまう
だから

2人が平行でいる役で
のこりがそこを
走ればいい
電路と電車
それではじめて
家族
そういう名前の
列車は はしる
平行に距離を保って安定
そうして
さいごまで
家族という列車を走らせよう

平行
一定の
距離が
そうできる
ひとつの家族の
かたち

大勢の中の孤独は
誰も居ない孤独からとおくはなれて
輪の中に入ることは出来なくても
向こう側に居るということは
存在は在るから
時が来ればまたどこかで少し近いことがあるかもしれない
そう思える分残酷で
かなしい
必要だよ
だったはずなのに
急に「いらない」ものになってまた捨てられる
それを認識し続けるから

でも
誰も見えなくなると
消えてしまったことを認識する
開いた空間は
其処にそのものが居たという空間は
同じものがまた埋めることは
完全になくなるというもの

「愛」って言うもの
信じるが解らないことからは無理
こわいのだろう
信じれば出会えば
その先に必ず
人と接するのに何らかの
わたしを殺しておかなければ
接することが出来なくなって
相手が大事になるほど
離れなくてはいけないと
そうしなければ
不幸にしてしまう
心から信じたい
信じられるはずなのに
どうしてもストップが掛かる
――けっきょく苦しくて

気持ちが強ければ強いほど
それだけ大きな別れと
喪失が待っていて
それは突然
予測つかないところでいきなりやってくる
永遠であるという核心も保証も
期限もなく
必ずある
手を放すとき

信じたい
信じる 安心 確信
その中での信じるということを
してみたい
“ゼッタイつないでいる手”をつないで
できないことわかっていても
つなぎたくてもつなげなくても
近くに居たくても
距離がどうしても必要でも
でも
―――信じて、手をずっと最期までつないで居てみたい

いつか
3つの母をわたしから
たがいに開放するために




<日記>08年01月ごろ

○日、はるばる、何日もかけて調整して、こんなどうしようもないわたしの、病院に、一緒に来てくれた。本当に、ありがとう・・・でも、せっかくの機会に、きてくれたのに、「親族でなければだめ」なんて、ひどい・・・
Tちゃんは、仕事を休んで、Wちゃんは、Zチャンを預けて。
これだけの影響を巻き込んで、さらに、こちらで、あの人も、巻き込んでいる。
なんて、おろかでいやな、無能な汚い生き物だろう
取りあえず、彼女に、次の予約日に、その日だけでも、とにかく来てもらい、今後のことこれからすることすべてに、“同意”だけ、もらえれば、それでいい。それ以上に、巻き込みたくない、見せたくない。認めないで、いい。認めて、壊してしまうくらいなら。わたしのこれからに、巻き込まないために、そのために必要な路へ行く、その“同意”のために、今回だけ、最初の承認だけ、それで、済む事、後は、もう、成人なのだから、書類が必要な他それに、今後は承認することだけを同意してもらえばいい、内容は、気にしなくていいから、・・・
彼女は、都合をつけてくれました・・・やっぱり、離れていないと、こういうふうにはならない・・・・
初診だけは、診察開始の前に、必ず親と一緒に話をする規則だから、どうか、お願いします・・・と、頼んだので・・・
診断名を言ってしまったら、どうなるかわからないから・・・


・・・・・・しかし、世界が、変わってしまった。
診断を受けた病院では、アスペルガーだったのに、はっきりと、「高機能自閉症」
アスペルガーと、明らかに異なる点がある、この文章とあなたの状態では、アスペルガーでは当てはまらない、高機能自閉症で、「ちがう」
「この県では、大人の発達障害関係を見ることが出来る医者は、私がその一人で、今もたくさん診ています」、と、言っていました。
私は、また、自分を見つけられなくなるの
また、居なくなったの、
でも、診断を受けた病院では、自閉の中の区分で、あたりをつけ、アスペルガーかな、という、自己判断の前提で、診断を受けたんだっけ。Tちゃんが、いろいろと調べてくれて、病院を知った経緯も、例外的に教えてもらったから、一番無難なところで、ある大学病院の関係からしって、ここを訪れた、ということにしてしまうしかなかったし。
だから、診断書にも、大学病院からの紹介されてこの病院にきた、アスペルガーかどうか、診断できる医者を探して、診断してほしくてきた・・・そういう流れだったから、先生も、そう診断した、・・・診断書にも、そんな風に、書いてある・・・
明確な、区分は、ないというものになっているから
でも、照らし合わせると明らかな違い・・・?
どう違うかと聞けば、同じ、でも、明らかに違う・・・
はっきりしらないのか、まだしらべるまでわからないからなのか
彼女が、来て、話をして、それで、そうしなければ、何もはっきりしないし、発達・知能テストをしなければいけない、その結果、受けるべき福祉や書類手続き、そのためにも、そういう書類は、どうしても親族の承認が必要になるので、どうしても、家族抜きでは何一つ進まない・・・
それは、かなり、痛かった。何のために、彼女抜きで、ここまで話を進めて、事を運んできたのだろう、何の為に、・・・親族が認めなければ、もっと悪いほうに行っても、それでもいいとでも言うのだろうか
親族抜きでも、成人なのだから、自分の判断で進む、それをするために、Tちゃんたちが、その「承認」として立つことが出来ることを求めて、遠くから足を運んでくれたというのに・・・・
もう、5時。病院に、29日に、“母”が行くこと、そして、それ以降は、彼女が来る事は、どうしてもむつかしいことを、身動きできない事情を抱えている事・・・わたしのこととは別に、家の中の関係上、どうしても、動けないのだ。
どうか、それで、彼女は、解放してください・・・
先生の診察となると、付き添い(親族以外)は不可。
壁が大きかった。
これでは、どうしても、カノジョを結果的に、後悔と終わりの無い最後まで荷物を背負わせることになる。
たった一度、それで、それだけでもいいだろうか、それで、もう、巻き込まなくてもいいだろうか・・・

08年1月頃
とにかく、お受験教育や、親のコピー化する教育、自分の理想の「自分が出来なかった生き方」を代わりにするものとして改造する教育
それがよくて、当てはまらなければ、調教しろ、と、言葉で、また、無言で、文字で、目線で、四六時中・・・そうしているのは、無意識なのか、意識的なのか、本能のひとつになっているのか・・・
だから、ありのままを受け止めたくても、それでいいのかと、おかしなナヤミを、その目を向けられた「子供の親」は、苦しみ、気がつくと、室内で飼う動物にしていることと、差がない部分まで、出てくる、
親は、どれだけ、苦しいだろう、そして、その、子供は・・・
如何して、私を見てくれないの、違う私であれと、「療育」で、いくらがんばっても、どうしても耐えられないものも、遮断する方法でなく、我慢することを詰め込んで、作り変えようとするの、私には、誰も、「居ない」の、誰か、見つけて、わかってよ、本当のわたしは、いつもここに居るのに、誰も見ない、・・・
それ、おかしいよ、子供を、お受験教育や、親のロボットやコピーとしてお人形にしていくことに一生懸命なことはいいとする社会「環境」、それが、いいこと?
出来ないものは、どうやっても、・・・性格や、個性の問題でなく、ただ、環境にあわない感覚と、能力を持っているというだけで、そのために、体も心も消耗する、そうさせてまで、・・・
つらいね、がんばってるね、がんばったね、ひとつするごとに、受け止めて、
”本来の姿でもいいんだよ”という”空間”も、それを作る事ができる、
私は、それが、理想で、社会こそが、それを普通にしていくべきなんじゃないか・・・そう、考えていってしまいます
誰一人、自分で居ていい時間を許してくれる、そして、ゼッタイに手を離さないでいてくれる存在・・・”いいんだよ、あなたは、あなたで”そういう人が居るからこそ、
初めて、生きていく上での、(過剰な、社会のほうが、世間のほうが偏見だというところは捨てておいて)必要なこと、
たった一人でも、どんなときでも、あなたはあなただよと、受け入れてくれる存在があるからこそ、初めて、身につけていく手順へ進むのではないか・・・

感覚過敏、知覚過敏は、本人がいくらコントロールして楽になりたいと願っても、その方法も、コントロールのマニュアルも、何もない、抑えるのにあるものは、所詮、「麻痺」させる精神安定剤ぐらい。
異文化で、新人類なんだよ!
外国人の、かみ合わない受け入れがたい行動や思考は、「異文化で、お国柄だから」で、受け入れるのに、如何して、これはだめなんだよお
何十年も、社会は何を、見ているんだよ、何を、作っているんだよ・・・こんなに沢山”いる”のに、如何して、分かろうというほうには進まないんだよ・・・
社会のせいにはしたくないけれど、お互いに認めなければ、どんなものでも、進まない
だから、せめて、一生懸命、我慢と演じて舞台でたって、それでも、降りて、”あなたの姿”に戻って休んでいいんだよ、そういう空間があって、一番のそういう人と手が在って、あるからこそ、やっと何とか当事者も「立って」いられる状態だと思うから
「環境問題」
・・・こころ、の

「今の社会のままじゃ、かえってつらい」のだ
本当に・・・本人も、周りも、親も、福祉に携わる人も

【コメント】(琴)

   ある、遺伝の本で、クローンの話を読んだ。人は母のおなかにいるうちに既に卵子を持っていて、人工授精で産もうと思えばまだ見ないはずの孫の顔も娘と同時にみえるという。だから,母という存在は、3つあって、遺伝子の提供者としての母、受精卵を育てるための有無はは、生まれた子を育てて社会的に育てていく社会的立場の母
  だから、世間は社会的母を強く求めがち。
  だから、遺伝子の提供者でもそうでなくても、育ての母という戸籍の中で母となっている人は、子に対する責任を大きく負わされる
  多くは三位一体だから
  世間はどうしてそうして母親にいろいろと求めすぎるのだろう
  血がつながっているから?
  そうでない場合でもどうしてそうなの、仲がうまくいっているとは限らなくてもどうして責任を多く求めるの
  それでは母は苦しいだけだ
  もっと母を、鎖から解放してください
(2010年8月記)


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